科長ブログ

8月15日

2010年11月01日

 今年も8月15日のころ、各地で終戦に関する催しが行われ、各報道機関では様々な特集が組まれました。このとき私は、当時の初等科生はどのような生活をしていたのだろうかと思い、手元の初等科だよりに綴られている2人の先生の記事を紹介しました。2学期始業式のことです。
「非常時は日々に激しくなり、翌19年度は縁故疎開が勧められた。6年であったからか集団希望が多く、5月から7月まで沼津游泳場に疎開。8月28日からは、4・6年が修善寺へ、3・5年が日光に疎開して授業となった。
 翌年4月からは、全学年日光に移り、私は小さい1年生の勉強と遊びの相手をした。5月には東京宅が全焼。7月、召集が来て爆撃当日の甲府に入隊、千倉で守備に就いた。2学期からは、再び沼津での疎開生活が21年3月まで続いた。」
と土田治男先生が綴っておられます。一方、近田廣司先生は、
「戦局は不利となり、食べ物の確保が大変になりました。日本中空腹の極限時代となり、みんなで大谷川の河原に行ってやぶかん草の葉をとり味噌汁の実にしたり、みかんの皮やじゃが芋の皮を残さず食べました。
 風邪をひかせぬように入浴は就寝直前にしましたが、部屋に戻るまでに手拭が凍りつきピーンと立ってしまう程の寒さでした。教師としては何としても幼い学生の命を守り、次の時代を背負って貰わねばと、必死の思いの疎開時代でした。子も親もみんなよく頑張り抜いたと思います。」
と綴っておられます。
 この始業式の後、このことをお聞きになった当時の初等科生だった方が、ご自分の書かれた当時の日記を、初等科に寄贈してくださいました。その一部を引用させていただきます。
「8月14日 火曜 曇
 今朝、B29が頭の上を通ってでんたん(伝単)をまきました。僕はそれを12枚拾いました。夕方蝉を10匹ほどとり損ないました。
 昼すぎ、お母様と僕と烏山病院へおみまいに行きました。夜、また空襲がありました。」
「8月15日 水曜 晴曇
 今朝、また空襲がありました。午前、蝉を取りました。昼の報道の時、陛下がほうそうされました。それは(日本平和条約に対して降服)終り(………)」
「8月16日 木曜 曇晴
 今日は朝から夜まで防空壕の中の物を出してせいりをしたのでひとっつもかわった事は無かった。」

 今日の初等科があるのは、このような大変なご苦労をなさった多くの卒業生や諸先輩方のおかげと思います。感謝する次第です。

(「初等科だより 第238号2010」より)
三浦 芳雄